田舎の県庁所在地に住む乳腺外科・緩和ケア専門医が、乳がんや緩和ケアについてわかりやすく解説します。 患者さんやご家族が正しい知識を持てるよう、専門的な情報を丁寧にお届けします。たまに趣味のことも書いています。
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📌 ピン留め 【2026年8月改定】高額療養費制度はこう変わる——がん患者・家族が知っておくこと
「がん治療費の心強い味方」である高額療養費制度が、2026年8月診療分から見直されました(第1段階)。 2026年8月2日更新:改定が施行されたため、記事全体を施行後の内容に更新しました。年間上限の金額も確定分に差し替えています。 結論:今回(第1段階)の引き上げ幅は区分により約4〜7%、金額にして月+1,500〜17,700円です。ただし同時に年間上限が新設されたため、長期治療の方はむしろ負担が下がる場合があります。報道で見る「最大38%」は2027年8月までの2段階を通じた数字で、今回の引き上げ幅ではありません。 「いくら増えるのか」「自分は影響を受けるのか」「何か対策はあるのか」——この記事では、がん患者・家族の視点から、2026年8月の改定を分かりやすく解説します。 制度の基本については先に がん治療の医療費——高額療養費制度を知っておく をご覧ください。 1. なぜ改定されたのか 背景 医療費の増大(高齢化・高額薬剤の登場) 健康保険財政の持続可能性確保 「応能負担」の強化(収入に応じた負担を) 改定の規模 報道でよく見る「4〜38%引き上げ」という数字は、2027年8月までの2段階を通じた最大値です。 2026年8月の第1段階だけを見れば、引き上げ幅は各区分(後述の金額から計算すると約4〜7%)にとどまります。高所得層ほど引き上げ幅が大きい設計で、38%に達するのは2027年8月の細分化後に最上位区分となる層です。 参考情報源:厚生労働省保険局「高額療養費制度の見直しについて」(令和7年12月25日 第209回社会保障審議会医療保険部会):https://www.mhlw.go.jp/content/12401000/001621844.pdf 2. 改定の全体像——2段階で進む 時期 内容 状況 2026年8月 第1段階:69歳以下の自己負担上限を引き上げ(5区分のまま)+年間上限の新設 施行済み 2027年8月 第2段階:所得区分を5区分→13区分に細分化 予定 → 2027年8月までに 計2回の改定が行われます。1回目はすでに始まっています。 3. 第1段階(2026年8月)の具体的な変更 69歳以下の方の月額自己負担限度額の引き上げ: 区分 年収目安 改定前(〜2026年7月) 改定後(2026年8月〜) 引き上げ額 ア 約1,160万円以上 252,600円 + α 270,300円 + α +17,700円 イ 約770〜1,160万円 167,400円 + α 179,100円 + α +11,700円 ウ 約370〜770万円 80,100円 + α 85,800円 + α +5,700円 エ 〜約370万円 57,600円 61,500円 +3,900円 オ 住民税非課税 35,400円 36,900円 +1,500円 ※「+ α」は医療費が基準額を超えた分の1%を加算。改定後の基準額は区分ア 901,000円・区分イ 597,000円・区分ウ 286,000円。 ...
📌 ピン留め 【乳がん】HBOCと2026年保険改定——血縁者のBRCA検査が保険でできるようになりました
2026年4月の診療報酬改定で、HBOC(遺伝性乳がん卵巣がん)の診療に大きな進展がありました。これまで自費でしか受けられなかった血縁者のBRCA1/2遺伝学的検査が、保険適用になったのです。 さらに4月20日には、検査陽性の血縁者が予防的な手術を保険で受けられることも明確化されました。 この記事では、 何が変わったのか 誰が対象になるのか どこで受けられるのか 残る課題は何か を、患者さん・ご家族向けに整理します。 1. そもそもHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん)とは ご本人や血縁者の中に、若年での乳がん・卵巣がん・膵がん・前立腺がんが複数ある場合、**BRCA1またはBRCA2という遺伝子に生まれつきの変化(病的バリアント)**があることが原因のひとつです。 これを**HBOC(Hereditary Breast and Ovarian Cancer)**と呼びます。 遺伝子の状態 乳がんの生涯リスク(海外データ目安) 一般集団 約9% BRCA1陽性 約65〜72% BRCA2陽性 約45〜69% 一般集団のおよそ5〜8倍のリスクですが、「必ずなる」わけではありません。リスクを知ったうえで、サーベイランス(定期的な検査)や予防的な手術といった対策を選べる——それがHBOC診療の意義です。 → HBOCの基本は乳がんと遺伝(HBOCの基本)もご参照ください。 2. 2026年4月、何が変わったのか 改定前:自費だった これまで、未発症の血縁者(両親・子・兄弟姉妹)がBRCA1/2の検査を受けるには、全額自費でした。費用負担を理由に、検査をあきらめるご家族が少なくなかったのです。 改定後:保険適用に 2026年4月の診療報酬改定で、HBOC患者の血縁者(両親・子・兄弟姉妹)のBRCA1/2遺伝学的検査が保険適用になりました。 これは、HBOC診療に関わってきた多くの医師にとって**「悲願」**ともいえる前進です。 💡 厚生労働省の従来の考え方は「発症していない人は病気ではない」というものでした。今回、**「未発症であっても遺伝学的なバックグラウンドを持つことは医療の対象になる」**という新しい考え方が認められた、と解釈できます。 3. 「血縁者」とは誰のことか 保険適用される血縁者の範囲は: 範囲 該当する人 第1度近親者 両親・子・兄弟姉妹 → おじ・おば・いとこ・祖父母・孫などは、この改定では対象に含まれていません(今後の課題)。 ただし、血縁者の方が陽性と分かれば、さらにその先のご家族へと検査の輪が広がっていく可能性はあります。 4. 4月20日の追加:陽性なら予防手術も保険適用 2026年4月20日に厚生労働省から出された通達(疑義解釈)で、もうひとつ大きな前進がありました。 血縁者がBRCA1/2検査で陽性となった場合、以下の予防的手術も保険算定が可能 K475:予防的乳房切除術 K888:両側卵巣卵管摘出術 つまり、血縁者が陽性→予防的な乳房切除や卵巣卵管摘出を保険で受けられるようになったということです。 これは「検査だけ保険、その後の対処は自費」という従来の壁を一部突き破った、非常に大きな変化です。 5. ⚠️ それでも残る課題:サーベイランスは依然として自費 ここまでは前向きな話ですが、残された課題もあります。 内容 2026年5月現在の保険適用 血縁者のBRCA1/2検査 ✅ 保険適用 陽性者の予防的乳房切除 ✅ 保険適用 陽性者の両側卵巣卵管摘出 ✅ 保険適用 未発症陽性者のサーベイランス(定期的なMRI・エコー等) ❌ 依然として自費 つまり、 ...
📌 ピン留め 緩和ケアは「あきらめ」じゃない——緩和ケア医が伝える本当の意味
「緩和ケアを勧められた」と聞いて、どう感じますか? 「もう治療ができないということ?」「見捨てられた?」——そう受け取る方が少なくありません。緩和ケアの現場に関わって10年の私も、この誤解が患者さんや家族をどれだけ苦しめてきたか、何度も見てきました。 この記事では、緩和ケアの本当の意味を専門医の立場から正直にお伝えします。 1. 緩和ケアへの「よくある誤解」 緩和ケアと聞いて多くの方が思い浮かべるのは、こんなイメージです。 治療をやめた人が行くところ 残りの時間を過ごすだけの場所 受けたら死が近いということ これはすべて誤解です。 この誤解が広まっている背景には、「ホスピス」「終末期ケア」という言葉が混同されていることがあります。緩和ケアはもっと広い概念で、がんの診断直後から始められるものです。 2. 緩和ケアの正しい定義 WHO(世界保健機関)は緩和ケアをこう定義しています(2002年)1。 「生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処を行うことで、苦痛を予防・緩和することにより、クオリティ・オブ・ライフ(QOL: 生活の質)を改善するアプローチ」 難しく聞こえますが、要するに**「病気そのものだけでなく、生活の質を守る医療」**です。 痛みを取る、不安を和らげる、家族を支える——それが緩和ケアです。 3. いつから始めるのか 緩和ケアはがんと診断されたその日から始められます。 以前は「治療が終わってから」という考え方が主流でしたが、現在は世界的に「早期からの緩和ケア」が標準とされています。 理由は明確です。2010年に発表されたハーバード大学の研究では、進行肺がん患者に診断直後から緩和ケアを導入したグループは、通常の治療のみのグループよりも生存期間が長く、QOLも高かったという結果が出ています2。 「緩和ケアを受けると早く死ぬ」のではなく、早期に始めたほうが長く生きられる可能性があるのです。 4. 緩和ケアは何をしてくれるのか 緩和ケアがカバーする範囲は広いです。 領域具体的なケア 身体的な苦痛痛み・吐き気・息苦しさ・倦怠感のコントロール 精神的な苦痛不安・抑うつ・恐怖への対応、心理士・精神科医との連携 社会的な問題仕事・お金・家族関係の相談(ソーシャルワーカーと連携) スピリチュアルな苦痛「なぜ自分が」「残された時間をどう生きるか」という問いへの寄り添い がん治療中に「痛みはないけど気持ちがつらい」「仕事をどうすればいいかわからない」——そういった悩みにも緩和ケアチームが関わります。 5. 家族も対象になる 緩和ケアは患者さんだけでなく、家族も対象です。 「本人に告知すべきか」「どう支えればいいかわからない」「自分もつらいのに誰にも言えない」——介護する側の苦しみは見過ごされがちです。 緩和ケアチームは家族の相談にも乗り、必要であれば心理士や福祉の専門家につなぎます。患者さんが亡くなった後の「グリーフケア(悲嘆のケア)」も含まれます。 6. 緩和ケアを受けると治療が止まるのか? 止まりません。 緩和ケアは抗がん剤治療や手術と並行して行うものです。治療の代わりではなく、治療を続けながら生活の質を守るためのサポートです。 緩和ケア専門医は「抗がん剤をやめさせる人」ではありません。「治療中のつらさを和らげながら、より良く生きるための選択肢を一緒に考える人」です。 まとめ 緩和ケアについて、6つのポイントをお伝えしました。 「治療をあきらめた人のもの」は大きな誤解 生活の質(QOL)を守るための医療 がん診断の直後から始められる 身体・精神・社会・スピリチュアルな苦痛すべてをカバー 家族も対象になる 抗がん剤などの治療と並行して受けられる 「緩和ケアを勧められた」と言われたとき、それは「あなたの生活の質を守りたい」というメッセージです。あきらめではなく、より良く生きるための一歩として受け取ってもらえたら、と思います。 このブログでは、緩和ケアについてさらに詳しく解説していきます。疑問や不安があれば、お気軽にご相談ください。 筆者:田舎の県庁所在地に住む医師。外科学会専門医・乳癌学会認定医。現在は乳がんの検診・診断と緩和ケアを専門に担当。医師になって20年。 WHO. National Cancer Control Programmes: Policies and Managerial Guidelines, 2nd ed. Geneva: World Health Organization; 2002. 日本語訳は日本緩和医療学会による。 ↩︎ ...
【お金・生活】学生時代の年金、追納すべきか——「いま決めること」と「まだ決めなくていいこと」
前の記事お金の勉強は、いつ始めるのが一番効くのかで、学生時代の国民年金について「申請は今すぐ。納付は後から」と書きました。 そこで止めてしまったので、続きを書きます。 では、その「後から」の納付——追納は、したほうが得なのでしょうか。 この問いは、インターネットで調べても答えが割れます。生成AIに聞いても、聞くAIによって結論が逆になることがあります。理由ははっきりしていて、AIは「あなたのその期間が未納なのか、承認を受けた免除なのか」を確認しないまま、一般論で答えてしまうからです。この2つは、制度上まったく別物です。 この記事では、判断に必要な前提を順番に開けていきます。数字はすべて日本年金機構と国税庁の公表資料から取りました。 そしてもうひとつ、先にお伝えしておきたいことがあります。年金の手続きには、いま決めるしかないことと、まだ決めなくていいことが混ざっています。この記事は、その2つを分けるために書いています。 大前提:「未納」は、そもそも追納できません 最初に、いちばん多い誤解です。 追納制度の対象になるのは、申請して承認を受けた期間だけです。日本年金機構は対象を「全額免除、4分の3免除、半額免除、4分の1免除、納付猶予、学生納付特例の期間」と明記しています。 申請せずに払わなかった期間=「未納」は、この中に入っていません。 何年か経ってから「まとめて払って年金を増やそう」と思っても、制度が用意されていないのです。 学生納付特例をさかのぼって申請できるのは「申請時点から2年1カ月前までの期間」まで。それを過ぎると、未納として確定します。 前の記事で「申請は今すぐ」と書いたのは、この期限のことでした。 申請しただけで、すでに手に入っているもの ここが、前の記事で書き足りなかった部分です。「追納の権利が残る」だけではありません。 申請して承認を受けた時点で、すでに2つの保障が働いています。 ① 万一のときの障害年金・遺族年金。 日本年金機構は、学生納付特例の承認期間について「保険料納付済期間と同様に当該要件の対象期間になります」と書いています。つまり、在学中に事故や病気で障害が残った場合、あるいは亡くなった場合、保険料を払っていた人と同じ扱いで受給要件が判定されます。 これは未納だと得られません。申請したかどうかで、万一のときの保障が変わるのです。 ② 老齢基礎年金をもらうための資格期間。 年金を受け取るには、原則10年以上の資格期間が必要です。承認期間は「この10年以上という老齢基礎年金の受給資格期間に含まれます」。 そして、ここからが追納の話につながります。 「ただし、老齢基礎年金の額の計算の対象となる期間には含まれません。」 受給資格には入るけれど、金額には反映されない。 これが、申請だけでは埋まらない唯一の穴です。 逆に言えば、追納で増えるのは老齢基礎年金の「額」だけです。障害年金や遺族年金の保障は、追納しなくてもすでに効いています。「万一に備えて追納を」という勧め方は、この点で正確ではありません。 追納すると、いくら増えるのか 日本年金機構は、こう書いています。 「1年間分追納すると、全額免除の期間であれば老後の年金が年間で約1万円、納付猶予や学生納付特例の期間であれば年間で約2万円増えます。」 同じ1年分でも、倍違います。 理由は、全額免除の期間には国庫負担分がすでに入っているからです。もともと半分は年金額に反映されているので、追納で埋まる残りも半分。一方、学生納付特例と納付猶予はゼロからの積み上げなので、丸ごと増えます。 自分の期間がどちらなのかで、判断は変わります。 数字の出どころも確かめておきます。令和8年度の老齢基礎年金の満額は月70,608円(年847,300円)。これを480か月(40年)で割ると、1か月あたり年1,765円。12か月分なら年21,180円です。年金機構の言う「約2万円」と一致します。 なお、老齢基礎年金の満額は生年月日で2種類あります。上の額は昭和31年4月2日以後生まれの方のもの。昭和31年4月1日以前生まれの方は月70,408円(年844,896円)で、わずかに低くなります。この記事では前者で計算しています。 元が取れるまで、何年か 追納にかかる金額は、いま支払う保険料の額ではありません。 「免除・納付猶予の承認を受けた期間の翌年度から起算して、3年度目以降に保険料を追納する場合には、当時の保険料額に経過期間に応じた加算額が上乗せされます」 つまり当時の保険料額が基準で、放っておくと加算額が乗ります。近年の保険料の推移はこうです。 年度 月額 令和5年度 16,520円 令和6年度 16,980円 令和7年度 17,510円 令和8年度 17,920円 令和8年度の水準で1年分を概算すると、17,920円×12か月=約215,000円。これで年金が年約21,180円増えるので、 215,000円 ÷ 21,180円 = 約10.2年 65歳から受け取り始めるなら、75歳ごろに元が取れる計算です。そこから先は、生きている限り上乗せが続きます。 この性質が大事です。**追納は「投資」というより「長生きへの保険」**です。早く亡くなれば払い損になり、長生きするほど得をする。だから「利回りが何%か」で考えるより、「長生きしたときに困らないための備え」として見るほうが実態に近いと思います。 節税を入れると、話が変わります 追納した保険料は、全額が社会保険料控除の対象になります。その年の所得から丸ごと引けるので、税率の高い人ほど実質負担が下がります。 さきほどの約215,000円を、限界税率別に置き換えてみます。 限界税率(所得税+住民税) 実質的な負担 元が取れるまで 15%(所得税5%) 約182,800円 約8.7年 20%(所得税10%) 約172,000円 約8.2年 33%(所得税23%) 約144,100円 約6.8年 43%(所得税33%) 約122,600円 約5.8年 (復興特別所得税は計算に入れていません) ...
AIは医師を置き換えるのか——性能・信頼・エビデンスの3層で見る現在地
「AIは医師を置き換えるのか」。この問いは、ここ数年で何度も投げかけられてきました。 講演でも記事でも、答えはたいてい二択で示されます。「置き換わる」か「置き換わらない」か。そして多くの場合、根拠は印象で語られます。AIが医師国家試験で高得点を取った、という話が出てくる。逆に、医療は人間の仕事だから代替できない、という話も出てくる。 筆者はどちらの答えも、問いの立て方が雑だと感じています。 この記事では、印象ではなく数字でこの問いに向き合います。使うのは2026年に出た3本の論文です。それぞれが違う層の限界を測っています。 層 問い 用いる論文 エビデンスの層 そもそも、どれだけ検証されているのか Nature Medicine 2026(システマティックレビュー) 性能の層 実際、どこまで当たるのか Radiology 2026(マンモグラフィAI) 信頼の層 患者は、AIの判定を受け入れるのか npj Digital Medicine 2026(ランダム化実験) 先に結論を書きます。「置き換えられるか」は、まだ問える段階にありません。 問うべきなのは「医師のどの業務を、どの程度安全に支援できるのか」のほうです。 第1層:エビデンス——4,609件の研究のうち、前向きRCTは19件 2026年3月、Nature Medicineに大規模なシステマティックレビューが載りました。臨床医学における大規模言語モデル(LLM)の研究を、網羅的に集めて質を評価したものです。 対象期間は2022年1月1日から2025年9月6日。PubMed 5,633件、Embase 8,666件、Scopus 9,315件を検索し、重複を除いた12,894件をスクリーニングして、4,609件の臨床LLM研究を抽出しています。 4,609件を約3年8か月で割ると、1日あたり3.2本。ChatGPTの公開以降、この分野の論文が爆発的に増えたことが数字で示されています。 問題は、その中身です。 項目 件数 抽出された臨床LLM研究 4,609件 うち実患者データを使ったもの 1,048件 うち前向きランダム化比較試験 19件 シミュレーション課題 1,857件 試験形式の課題 1,704件 4,609件のうち、実際の患者データを使ったものは1,048件。そのうち前向きランダム化比較試験は、わずか19件です。 残りの大半は、仮想症例に答えさせたもの(1,857件)か、医師国家試験のような問題を解かせたもの(1,704件)でした。さらに、サンプルサイズが30未満の研究が、全体の少なくとも25%を占めています。 新しい薬が世に出るまでに、どれだけの前向き試験が必要かを考えれば、19件という数字の意味は分かりやすいと思います。論文の数は多い。しかし、診療を変える根拠となる水準の研究は、まだほとんどありません。 人間と直接比べた1,046件——勝ったのは33.0% このレビューがもうひとつ示しているのが、人間との直接比較の結果です。 比較が可能だった1,046件(全体の22.7%)のうち、 LLMが人間を上回った:33.0% 人間がLLMを上回った:64.5% つまり、3回に1回しか勝っていません。 さらに重要なのは、どんな相手と、どんな課題で比べたかによって結果が変わるという点です。著者らは、比較相手が指導医(attending physicians)の場合はLLMが上回る頻度が下がり、研修医(residents)が相手の場合は約30%多く上回る傾向がある、と報告しています。課題についても、試験形式や知識の検索といった人工的な課題ではLLMが比較的強く、実際の患者データを使った現実に近い課題では優位性が下がります。 「AIが医師国家試験で高得点を取った」という話は事実です。しかしそれは、LLMがいちばん得意な土俵での成績でした。1,046件の集計は、その土俵から離れるほど成績が落ちることを示しています。 なお、このレビュー自体にも限界があります。自動解析はタイトルと抄録に対して行われており、本文まで読み込んでいません。著者ら自身が、臨床的に重要な機微を取りこぼす可能性を認めています。AIを使ってAIの研究を評価した論文である以上、この自己言及的な限界は押さえておくべきだと思います。 第2層:性能——10年前から「予感」できる。ただしAUCは0.63-0.67 次は画像です。乳がん検診のマンモグラフィAIについて、2026年6月のRadiologyに興味深い論文が出ました。 スウェーデン4地域の検診データベースを使った後ろ向き研究です。2008年1月から2019年4月までのデータで、31,394人・88,963件の検査を解析しています。うち12,072人(38.5%)が乳がんと診断されました。検診時の年齢中央値は57.6歳でした。 この研究の面白いところは、リスク予測専用のAIではなく、「いまの画像にがんらしさがあるか」を見る通常の市販AI-CAD 3製品を使い、同じ人の過去の検診画像を時間軸でさかのぼって追った点です。 結果はこうです。特異度を90%に設定したとき、AIが拾い得たがんの割合。 診断の何年前か AI-1 AI-2 AI-3 10年前 12.7% 13.8% 17.0% 6年前 19.0% 19.6% 19.7% 4年前 24.2% 23.3% 25.2% 診断の10年前の時点で、すでに1割強のがんでAIスコアが上がっていた。 3製品とも同じ傾向でしたから、特定の製品に固有の現象ではありません。 ...
【お金・生活】お金の勉強は、いつ始めるのが一番効くのか——住宅ローンを組んでから気づいたこと
医師向けの媒体で、こんな質問を見かけました。 「いくら貯めたら家を買えますか」 若い医師からの質問で、回答も複数ついていました。読んでいて感じたのは、質問した人への違和感ではありません。答えのほうが、そろって同じ方向を向いていたことのほうでした。年収の何倍まで借りられるか、フルローンで自己資金を残すべきか、住宅ローン減税を何年使うか——技術の話ばかりで、「そもそもどういう暮らしをしたいのか」から始まる回答は少数派でした。 医師は、お金の教育を受ける機会がほとんどないまま高収入になります。そのことを、あらためて突きつけられたように思いました。 そして自分自身を振り返って、ひとつ思い当たることがありました。筆者も、住宅ローンを組んだときには何も知らなかったのです。 この記事では、「お金の勉強はいつ始めるのが一番効くのか」を考えます。結論を先に書くと、筆者の答えは**「知識の種は早く渡し、本格的な実行は余裕ができてから」**です。 「早く始めるほど得」は、たしかに正しい まず、こちらは動かしようのない事実です。 資産形成の効果は、運用に使える時間の長さに大きく左右されます。同じ金額・同じ利回りなら、20代から始めた人と40代から始めた人では、複利の効く期間が20年違う。これは努力や才能で埋められる差ではありません。 だから「若いうちから始めよう」という助言は正しい。ただし、それは続いた場合の話です。 それでも、早ければいいとは限らない 筆者が引っかかっているのは、ここです。お金の勉強を始める時期を、大きく3つに分けてみます。 始める時期 強み つまずきやすい点 働く前(学生時代) 複利の効く時間が最も長い 必要性を実感できず、途中でやめてしまう 働き始めと同時 収入が発生し、実践できる 職場で覚えることが多すぎて、時間が取れない 働いて少し余裕ができた頃 必要性が切実で、動かせるお金もある 複利の効く時間を何年か失っている 学生時代に投資の本を読んでも、動かせるお金がありません。知識だけが先にあって使う場面がないと、たいていは忘れます。 働き始めた直後も、実は厳しい。医師で言えば研修医の時期です。覚えることが多すぎて、家計簿の付け方まで手が回りません。しかもこの時期がいちばん営業を受けやすい。不動産投資、節税を謳う保険、医師向けのローン——研修医になった瞬間から声がかかります。知識がないまま、収入だけが立ち上がる。もっとも危ない組み合わせです。 では、働いて少し余裕ができた頃はどうか。必要性が切実で、かつ動かせる資源がある。 モチベーションと実行可能性が、この時期に同時に立ちます。 筆者自身がその例です。夫婦のNISAの設計、iDeCoを増額するかどうかの試算、保険の整理、そして50代以降の働き方の設計。この1〜2年で一気に進みました。20代の自分に同じ本を渡しても、たぶん読まなかったと思います。 ただし、遅い開始には確実なコストがあります。 それが次の話です。 筆者の場合:住宅ローンを組んだとき、知らなかったこと 筆者の住宅ローンは、こういう条件です。 項目 内容 金利タイプ 全期間固定 1.450% 特約 3大疾病団信(+0.15%) 返済額の対収入比 約8% 完済予定 2037年3月 住宅ローン控除 受けていない 10年固定で1.0%という選択肢もありましたが、採りませんでした。住宅ローン控除を受けていないのは、新築時のローンを途中で引き継いだためです。 正直に書きます。ローンを組む前にお金の勉強をしていたら、いまのローンは組んでいません。 団信も付けず、掛け捨ての生命保険で代用していたはずです。3大疾病団信の+0.15%は、返済期間を通して払い続ける保険料と同じですから、同等の保障を掛け捨てで買えるなら、そちらのほうが安く済んだ可能性があります。 これは後悔として書いているのではありません。知らない時期に決めたことは、あとから直せないものがある——その実例として書いています。 それでも、いまのローンは組み替えません ここが大事なところです。 団信を外すには借り換えが必要です。そして借り換えれば、全期間固定1.450%という条件を手放すことになります。金利が上がっている局面で、この条件を捨てて再調達するのは合理的ではありません。 つまり、過去の判断としては最適でなかったけれど、これからの判断としては現状維持が正解、という状態です。 お金の見直しをしていると、こういう場面によく出会います。「あのとき知っていれば」と「いま変えるべきか」は、まったく別の問いです。前者の答えが「変えていた」でも、後者の答えが「変えない」になることは珍しくありません。 「ローンを軽くした」ことだけは、結果的に効いている 知らずに決めたことばかりだったのですが、ひとつだけ、いま効いている判断があります。 借入額を抑えたことです。返済額は収入の8%程度に収まっています。 これがどう効くか。働き方を変える自由度として効きます。 50代半ばで勤務を減らし、収入が下がる——そういう選択を検討できるのは、固定費が軽いからです。毎月の返済が収入の2割、3割を占めていたら、同じことは考えられません。収入を下げられないので、体力が落ちても同じ働き方を続けるしかない。 医師向けの住宅購入の議論では、「年収の5〜6倍までは借りられる」という目安がよく出てきます。しかしこれは金融機関が貸せる額であって、無理なく返せる額ではありません。しかも医師の収入は、勤務先の変更や役割の変化で動きます。「ローン期間中ずっと同じ報酬を得られる前提」で組むと、その前提が崩れたときに逃げ場がなくなります。 住宅ローンは、住宅の問題であると同時に、その後20年、30年の働き方の自由度を決める契約でもあります。そう考える人がいてもいいはずですが、筆者が読んだ議論の中に、この視点はほとんどありませんでした。 学校で金融教育が始まった——ただし「早く教える」と「身につく」は別 最近、こういう課題があることを知りました。高校の夏休みの宿題で、バーチャルの資金500万円を使って株を売買するというものです。 金融教育が学校に入ったこと自体は、前進だと思います。筆者の世代は、誰からも何も教わりませんでした。 ただ、筆者の持論からすると、高校生の段階で「腹落ち」まで狙うのは難しいと思っています。必要性を実感しないまま与えられた知識は、定着しにくい。 課題を出す側は「短期売買の難しさを体感して、だから長期・積立・分散なのだと分かってくれたら成功」と考えているのでしょう。それは正しい設計です。ただし、うまくいかない場合があります。 勝ってしまったときが、いちばん危ない 数週間の売買で、たまたま利益が出ることは普通にあります。そのとき生徒が持ち帰るのは、「短期売買は難しい」ではなく**「短期売買は儲かる」**です。しかもそれを、学校のお墨付きで持ち帰ることになります。 ...
10月から酒税が変わる——で、うちはいくら増えるのか計算してみた
2026年10月1日から、酒税が変わります。「発泡酒が値上げ」「増税」という見出しを見て、少し身構えた方もいるかもしれません。 そこで、わが家では実際に年間いくら増えるのかを計算してみました。 結論を先に書きます。年間およそ500円でした。 月にすると40円ほどです。正直、拍子抜けしました。 この記事では、何がいくら変わるのかを国税庁の資料で確認したうえで、飲む頻度ごとに年間いくら変わるかの早見表を作りました。ご自身の行を探してみてください。 そして最後に、この改正で本当に効いてくるのは金額ではないという話をします。 1. 何が、いくら変わるのか まず事実から。1本あたりの酒税額です(左が9月30日まで、右が10月1日から)。 区分 350ml缶 差 500ml缶 差 ビール 63.35円 → 54.25円 ▲9.10円 90.50円 → 77.50円 ▲13.00円 発泡酒(麦芽比率25%以上50%未満) 54.25円 → 54.25円 変わらず 77.50円 → 77.50円 変わらず 発泡酒(麦芽比率25%未満) 46.99円 → 54.25円 +7.26円 67.12円 → 77.50円 +10.38円 いわゆる「新ジャンル」 46.99円 → 54.25円 +7.26円 67.12円 → 77.50円 +10.38円 チューハイなど(その他の発泡性酒類) 28.00円 → 35.00円 +7.00円 40.00円 → 50.00円 +10.00円 ここで気づいてほしいことがあります。 ビールは、下がります。 2020年10月から段階的に進んできたビール系飲料の税率の一本化が、今回で最終段階を迎えます。高いほうを下げ、安いほうを上げて、同じにするという改正です。だから「増税」と一言でまとめると、半分しか言っていないことになります。 2. 「発泡酒は全部上がる」は、正確ではありません 細かい話ですが、ニュースではあまり触れられない点です。 発泡酒は、麦芽の比率によって3段階に分かれています。 麦芽比率 現行の税額(350ml) 10月以降 50%以上 63.35円 54.25円(下がる) 25%以上50%未満 54.25円 54.25円(変わらない) 25%未満 46.99円 54.25円(上がる) つまり**「発泡酒」と一括りにすると間違い**で、中身によって上がるものも下がるものも、変わらないものもあります。 ...
同じ国で3倍の差——HPVワクチンを「打つ・打たない」の前に知ってほしいこと
がん保険に入っても、がんにならずに済むわけではありません。保険が備えるのは「かかった後のお金」であって、「かからないこと」ではないからです。 では、がんそのものを防ぐ手段はあるのか。 ほとんどのがんについて、答えは「決定打はない」です。ただしごく少数、ワクチンで原因そのものを減らせるがんがあります。子宮頸がんは、その代表です。 この記事では、そのHPVワクチンについて書きます。ただし「打ちましょう」と勧める記事ではありません。打つか打たないかを決める前に、知られていない事実がいくつもある——そちらを整理します。 なかでも中心に置きたいのは、最近公表された都道府県別の接種率です。同じ国の同じ制度なのに、最も高い県と低い県で約3倍の差がついていました。 はじめに:筆者の立場を明示します 私は乳腺外科と緩和ケアを専門とする医師で、婦人科医ではありません。子宮頸がんの診療そのものは専門外です。 それでもこのテーマを書くのは、「予防でがんを減らす」という点で共通の土俵に立っているからです。乳がんの検診も、早期発見によって重い治療を減らすための営みです。専門領域の臨床判断には踏み込まず、制度と数字の読み方に絞って書きます。 もうひとつ、あらかじめ申し上げます。この記事は誰も説得しに行きません。 HPVワクチンは、推進と反対が激しくぶつかってきたテーマです。どちらかの陣営に立って相手を論破する文章は、すでに世の中にたくさんあります。私が書きたいのはそこではありません。判断に必要な材料と、判断した後に使える制度を置いて終わります。 マクロ:この病気は、どれくらい重いのか まず、防ごうとしている相手の大きさを確認します。 子宮頸がんは日本で年間およそ1.1万人がかかり、約2,900人が亡くなっています。そして見逃せないのが、30歳代までに、がんの治療で子宮を失う(妊娠できなくなる)人が年間およそ1,000人いることです。 生涯でどれくらいの確率かという形にすると、こうなります。 指標 数値 分かりやすく言うと 一生のうちに子宮頸がんになる人 1万人あたり132人 約4クラスに1人 子宮頸がんで亡くなる人 1万人あたり34人 約15クラスに1人 (1クラスに女子が20人いるものとして計算しています。実際の人数は学校や学年によって違いますが、桁の感覚をつかむための目安です。) 「1万人あたり132人」と言われてもピンときませんが、「4クラスに1人」と言われると景色が変わります。同じ数字でも、見せ方で受ける印象はまったく違う——これは後で大事になるので、覚えておいてください。 ワクチンで、どこまで防げるのか 子宮頸がんの原因はHPV(ヒトパピローマウイルス)というウイルスの感染です。多くは自然に消えますが、一部の人で感染が続き、前がん病変を経てがんになります。感染した後で誰ががんになるのかは、今のところ分かっていません。だから「感染そのものを防ぐ」ことが手段になります。 現在使われているワクチンの効果は、防げるHPVの型の範囲で決まります。 ワクチン 防げる型 子宮頸がんの原因のうち 2価・4価 HPV16型・18型 50〜70% 9価(シルガード9) 上記+5種類 80〜90% 100%ではありません。打っても残る分があるということです。この点は後半でもう一度触れます。 ミクロ:集団の期待値は、当たった個人の慰めにならない ここからが、この記事でいちばん書きたかったことです。 上に並べた数字は、すべて集団の話です。「1万人に打てば、これだけ減る」という計算であって、「あなたが打てば得をする」という意味ではありません。 ワクチンには副反応があります。頻度を正確に書きます。 頻度 症状 50%以上 接種部位の痛み・赤み・腫れ、疲労 10〜50%未満 かゆみ、腹痛、筋肉痛、関節痛、頭痛など 1〜10%未満 じんましん、めまい、発熱など まれ 重いアレルギー症状、神経系の症状 ほとんどは注射部位の痛みで、それは多くのワクチンに共通するものです。しかし「まれ」に分類される重い症状は、確率が低いというだけで、起きないという意味ではありません。 そして——ここが大事なところです。 実際に重い症状が起きた人にとって、「1万人あたり何人」という数字は、何の慰めにもなりません。 その人にとって起きたことは100%です。集団としての期待値がプラスであることと、目の前のその人に起きた出来事は、まったく別の次元にあります。「打つべきではなかった」と感じるのは、極めて自然な感情だと私は思います。 医療者の中には、こうした感情を「誤解」や「不安」として扱い、正しい情報を与えれば解消されるはずだ、と考える人もいます。私はそこには与しません。感情を病理として扱った瞬間に、対話は終わります。 マクロの推奨は正しい。かつ、不利益を受けた個人が「やるべきでなかった」と思うのも正しい。この二つは同時に成り立ちます。 矛盾しているように見えるのは、統計と個人が別の論理で動いているからです。 男性も打てます——ただし、自費です 意外に知られていませんが、HPVワクチンは男性も接種できます。 HPVが関わるのは子宮頸がんだけではありません。男性では中咽頭がん・肛門がん・陰茎がんが関連します。とくに中咽頭がんは、日本の報告で患者のおよそ55%がHPVに関連していました(p16陽性1,113例に対し陰性893例)。 日本でも、4価ワクチンが2020年12月に9歳以上の男性へ、9価ワクチンが2025年8月に男性へと、それぞれ承認が広がっています。 ただし、ここに大きな段差があります。 女子は定期接種(小6〜高1相当)。男性は定期接種の対象外=全額自己負担。 費用は4価3回で5〜6万円程度、9価3回で8〜9万円程度です(東京都の記載による)。同じ学年の男女で、片方は公費、片方は数万円の自腹ということになります。 そして認知度も、数字で出ています。ある調査では、**「男性もHPVワクチンを接種できる」ことを知っていた保護者は39.4%**でした。裏を返せば、6割は知らないということです。 なお日本で承認されている男性への効能は、肛門がんとその前駆病変、そして尖圭コンジローマです。中咽頭がんへの予防効果も期待されていますが、現時点で承認された効能には含まれていません。 地域差①:女性の接種率が、3倍違う ここから本題です。 ...
始めるか、やめるか——決断の重さは、同じではない
「食べられなくなってきたので、点滴をしましょうか」 ——こう聞かれたとき、多くのご家族は、それほど長くは迷いません。とりあえず様子を見ましょう、という気持ちで始まることが多いと思います。 ところが、いったん始まったものについて「そろそろやめましょうか」と話し合うとき、同じようにはいきません。切り出すこと自体が、とても難しくなります。 始めるときと、やめるとき。**医療の考え方の上では、同じことを問うているはずです。**それなのに、決める人にとっての重さは、まったく違う。 この記事は、なぜそうなるのか、そしてどうすれば少しだけ楽になるのかの話です。 1. 医学的には、同じ問いのはずなのに 「始めるかどうか」と、「続けるかどうか」。 この2つは、実はまったく同じことを問うています。すなわち——いま、この人にとって、それは益になっているか。 医療の考え方の上では、この2つに差はありません。ところが、ご家族の受け取り方は、まるで違います。 家族が感じること 始めない 「しない」=ひとまず様子を見る やめる 「取り上げる」=自分たちが決めて、終わらせる 同じ判断が、まったく違う重さで届く。ここが、すべての出発点です。 2. なぜ「やめる」方が、重く感じるのか これは、ご家族が弱いからでも、覚悟が足りないからでもありません。人間の心の仕組みとして、誰にでも起きることです。 「したこと」は、「しなかったこと」より重く感じる 人には、自分が何かをして起きた結果を、何もしなかったために起きた結果より重く受け止める傾向があります。 「始めなかった」なら、成り行きに任せた気がする。「やめた」なら、自分が手を下した気がする。医学的には同じでも、心の中では別のことが起きています。 始めた時点で、それが「普通」になる もうひとつ。何かが続いている状態は、そのうち「当たり前の状態」になります。 すると、やめることの方が「変更」になる。そして変更する側には、説明する責任が生まれてしまう。「なぜやめるのか」は問われても、「なぜ続けるのか」は問われません。 この2つは、医療倫理の議論でも知られている現象です。専門家の間では「差し控えることと中止することに、倫理的な差はない」というのが標準的な考え方とされています。それでも、実際に決める人の心にとっては、まったく違う。この落差が、現場の苦しさの正体です。 専門家も、この重さと格闘してきました ひとつ、象徴的な話があります。 日本老年医学会は2012年の文書で、治療を終えることを「治療からの撤退」と表現していました。ところが2025年の文書では、この言葉を「終了」に改めています。 理由はこう説明されています。適切な話し合いを重ね、その結果として治療を終える選択がなされたのなら、それは「撤退」と呼ぶべき状況ではない、と。 **同じ行為を指す言葉を、13年かけて変えた。**言葉の重さが判断を歪めることを、専門家の側も分かっているということだと思います。 意見が割れやすい そしてもうひとつ、現実的な問題があります。経過をずっと見てきた人と、途中から来た人とでは、見えているものが違うということです。 久しぶりに会った親族が「まだやれることがあるのでは」と言う。その言葉に、毎日付き添ってきた家族が何も言えなくなる。続ける方向には、いつでも簡単に戻れてしまいます。 3. だから、最初の話し合いが決定的になる ここまでをまとめると、こうなります。 やめる決断は、始める決断より、はるかに重い。 ならば、重さが軽いうちに——つまり「始めるとき」に、決めておくしかない。 「どうなったら、見直すか」を、同時に決める 始めるかどうかを話し合うとき、もうひとつだけ、一緒に決めておくことをおすすめします。 「どうなったら、もう一度話し合いますか」 たとえば——「2週間続けてみて、目を開けて反応する時間が増えなければ、もう一度みんなで話し合う」。そんなふうに、最初に区切りを決めておく。 これには、大きな効果があります。 やめる話が、「誰かが言い出す話」ではなくなるのです。あらかじめ決めた約束の見直しになる。「お母さんを見捨てるのか」という話ではなく、「最初に決めたとおり、もう一度考える時期が来ましたね」という話になります。 これは、「始めたらやめられない」を防ぐ、有効な方法のひとつです。 この考え方には、名前がついています 実は、これは思いつきの工夫ではありません。医療の世界では「time-limited trial(TLT)」と呼ばれ、日本老年医学会が2025年にまとめた文書のなかで、こう定義されています。 治療効果の判断に迷いがある場合に、効果を確認するために、一定の期間、治療を試行すること。本人の望む効果が得られない場合や医学的な治療効果が認められない場合は、緩和ケアを尽くしつつ、その治療を終了することが前提とされている。 そして、こうも書かれています。人工呼吸器などの負担の重い治療に使われることが多いが、経管栄養法(胃ろうなど)を含め、あらゆる治療法に適用できる、と。 つまり、「期間を区切って試してみる」というやり方は、胃ろうや点滴にも、はっきり使えるものとして認められています。 日本のガイドラインにも、書かれています 「一度始めたものをやめるなんて、許されるのか」——そう感じる方も多いと思います。 日本老年医学会が2012年にまとめた、人工的な水分・栄養補給についての意思決定のガイドラインには、こう書かれています。 導入を検討するときは、「導入しない」という選択肢も含めて示し、それぞれが本人の生活にもたらす益と害を理解したうえで考えられるようにする 導入した後も、継続的にその効果と本人にとっての益を評価する 全身状態の悪化などで本人にとって益とならなくなった場合、あるいは益かどうか疑わしくなった場合には、中止または減量を検討する つまり、「見直すこと」も「やめること」も、最初から想定された選択肢として書かれています。特別なことでも、非情なことでもありません。 同じガイドラインには、こうも書かれています。人工的な栄養補給が、延命にも、快適に過ごすことにも、どちらにもつながる見込みがない場合、それはかえって本人にとって害となり、人生の最期を歪めることになる、と。 そしてこれは、ご家族だけの話ではありません ここまで、決めるご家族の心の重さについて書いてきました。ですが、同じ心理は医療者の側にもあります。 先ほどの2025年の文書は、そこにはっきり踏み込んでいます。要点はこうです。 一度始めた治療を終えることを、医師も難しく感じる。だから「あとでやめられないくらいなら、最初から始めないでおこう」という対応が起きてしまう。 そして学会は、これを厳しい言葉で戒めています。それでは本人の回復する可能性を活かせず、医療倫理に反する、と。 ここに、この記事でいちばんお伝えしたいことがあります。 ...
転移とはどういうことか——外来で話しきれないこと
「転移って、どういうことですか」 診察室でよく聞かれる質問のひとつです。時間をとってご説明していますが、その場で一度に聞き取るには、少し込み入った話でもあります。 そこで、診察室でお伝えしていることを、あとから読み返せる形にまとめておくことにしました。 この記事を読んでも、治療方針が変わるわけではありません。「体の中で何が起きているのか」を知るための記事です。それが必要ない方は、読まなくてまったく問題ありません。 なお、転移がどこに起きやすいか、見つかったらどう向き合うかは、別の記事にまとめています。そちらを先に読んでいただいた方が役に立つかもしれません。 👉 乳がんの再発・転移——どこに起きる?どう向き合う? 1. 転移とは、何が起きていることか 「広がった」のではなく、「離れて、新しく増え始めた」 「転移」と聞くと、多くの方がもとのがんが大きくなって、じわじわと周りに広がっていった姿を思い浮かべます。 でも、遠くの臓器への転移で起きているのは、そういうことではありません。 がん細胞が、もとの場所から離れて、血液やリンパの流れに乗って移動し、別の場所で新しく増え始めた。もとの場所とはつながっていません。飛び火に近いイメージです。 骨に転移した乳がんは、「骨のがん」ではありません ここが、いちばんお伝えしたいところです。 乳がんが骨に転移したとき、その骨にあるのは乳がんの細胞です。顕微鏡でのぞいても、乳がんの顔つきをしています。骨から新しく発生したがんではありません。 だから、治療は乳がんの治療を続けます。 「骨に転移したのに、どうして乳がんの薬なんですか」と聞かれることがありますが、答えはここにあります。場所が変わっても、相手は最初から最後まで乳がんだからです。 これは肺でも肝臓でも同じです。肺に転移した乳がんは「肺がん」ではありませんし、肺がんの治療をするわけでもありません。 骨転移そのものの症状や治療については、乳がんの骨転移——痛み・骨折とどう向き合うか にまとめています。 2. どうやって、そこへ行くのか がん細胞は、血液の流れとリンパの流れに乗って移動します。 では、流れ着いた細胞はその後どうなるのか。ここは人の体で直接数えることができないので、動物実験で調べられてきました。マウスにがん細胞を注射して、一つひとつの細胞を追いかけた研究があります。 その結果は、少し意外なものでした。 段階 そこまで到達した割合 血流を生き延びて、血管の外へ出る 約8割 そこから、小さなかたまりを作る 約2% さらに、目に見える大きさまで育つ 約0.02% 血管の外に出るところまでは、多くの細胞が到達していました。 細胞が止まるのは、その先でした。血管の外に出た細胞の多くは、増えることも死ぬこともなく、そのまま眠ったように留まっていた——実験ではおよそ3分の1の細胞が、13日たっても単独のまま眠っていました。 つまり、転移が成立しにくいのは「たどり着けないから」ではなく、「着いた先で増え始められないから」でした。 このことは、あとの話につながってきます。どこに着くかより、どこでなら育てるかが問題なのだ、という話です。 ⚠️ ただしこれは、マウスに特定のがん細胞を注射した実験の結果です。人の乳がんが自然に転移していく過程を測ったものではありません。「そういう傾向がある」という程度に受け取ってください。 血液を調べれば、早く分かるのでは? ここまで読むと、こう思われるかもしれません。がん細胞が血の中を流れているのなら、その血を調べれば、転移を早く捕まえられるのではないか。 実際に、その研究が進んでいます。ただし2026年現在、日本の保険診療では使えません。期待できることと、まだ言えないことがはっきり分かれている分野です。 👉 MRD検査とctDNA——血液で「再発の芽」を捉える研究の現在地 3. 行き先に偏りがあるのは、なぜか 乳がんの転移先には、はっきりした偏りがあります(頻度は別記事にまとめています)。ではなぜ、そこなのか。 昔から言われてきた説明は、とてもシンプルです。流れが遅くなるところ、細くなるところで引っかかる。 肺:全身をめぐった血液が、心臓を通って最初にたどり着く毛細血管は肺にあります。順番の問題です 肝臓:胃や腸からの血液は、必ず肝臓を通ります。ここも「最初のフィルター」です 骨:転移が多いのは背骨・骨盤・肋骨など、赤い骨髄がある場所です。ここは血管の作りが粗く、流れがゆっくりになります リンパ節:リンパ液が最初に流れ込む「部屋」があります。センチネルリンパ節生検は、まさにこの「最初に着く場所」という考え方の上に成り立っています 脳:脳は例外的に血流が速い臓器です。それでも転移が多いのは、血管の太さが急に変わる場所(灰白質と白質の境目)と、血流の行き止まりにあたる領域。1996年の報告が、2025年に1万3千例以上を集めた解析で改めて確かめられています ここまでで、乳がんの転移先の主なところは、ほぼ説明がついてしまいます。100年以上前に考えられた説明が、今でもかなりよく当たっているわけです。 4. ところが、それだけでは説明できない ただ、この説明には穴があります。血がたくさん流れているのに、転移がほとんど来ない場所があるのです。 脾臓は、血の巡りが豊富で、しかも血液の中の古くなった細胞を処理するのが仕事の臓器です。それなのに、転移はまれです。理由については、免疫細胞が密集していることが関係するのではないか、といった考えがありますが、まだよく分かっていません。 骨格筋も同じです。筋肉は体重のかなりの部分を占め、血も流れています。それでも転移はほとんど見ません。 心臓に至っては、ほとんど来ません。 つまり——着くことと、そこで育つことは、別の話なのです。 そして、この「脾臓の謎」は、今になって見つかったことではありません。137年前に、すでに指摘されていました。 5. 種と土——1889年に出された問い この「別の話」に最初に気づいたのは、137年前のイギリスの外科医でした。 1889年、彼は乳がんで亡くなった735人の記録を集め、どの臓器に転移していたかを一つひとつ数え上げました。そして気づきます。**臓器に流れ込む血の量と、転移の多さが、釣り合っていない。**肝臓や卵巣、特定の骨には多いのに、脾臓には少ない——彼はそのことをはっきり書き残しています。 だから彼は、こう考えました。 種は風に乗ってどこにでも飛ぶ。けれど、芽を出せる土は選ぶ。 ...